「死にて葬られ」(使徒信条11)
イエス様は十字架にかけられて死なれました。物言わぬ死体となって墓に葬られました。力なくだらりと手を垂らした屍が十字架から取り下ろされる場面はしばしば絵画に描かれてきました。そのような絵を目にする度に、(ああ、これが人間であるということであり、人間として死ぬということなのだ)と思わされます。使徒信条において「聖霊によりて宿り」から「十字架につけられ」までは、あくまでもキリストに固有のことでした。私たちは聖霊によって母の胎に宿っていませんし、罪の贖いとして十字架にかけられてもいません。しかし、「死にて葬られ」においてキリストと私たちは一つになります。十字架から取り下ろされるか、ベッドから取り下ろされるかは、大した違いではありません。キリストについて「死にて葬られ」と語られている信仰告白の言葉は、そのまま私たち自身もまた「死にて葬られ」るべき人間であるという事実を突きつける言葉ともなります。人が死ぬということ、しかも罪ある人間として死ぬということは、いかなる仕方においても美化することができない厳しい現実です。そして、私たちはその厳しい現実を突きつけられることになるのです。
しかし、「死にて葬られ」という言葉は、ただ私たちを現実と向き合わせるだけではありません。それは、他ならぬ神の御子がそのような死の現実を共有してくださったことを伝える恵みの言葉でもあるのです。私たちは決して孤独では死にません。死においてさえ主は共におられます。十字架において罪の贖いを成し遂げられた方として共におられます。さらに私たちは死において共におられる主は葬られて後三日後によみがえられた御方であることを知らされているのです。それゆえ、もはや死は決して絶望を意味することはありません。(清弘剛生)
ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 ヨハネ19:38
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