御言葉に聴く生活を築く上で、日々聖書を開き、御言葉に耳を傾けることは重要です。そのために頌栄教会では、聖書日課表を毎月お配りしています。
しかし、聖書を読むことに関して、「一人で読んでいると間違って解釈しているのではないかと心配」という言葉を耳にすることがあります。聖書を読むためには、いわゆる注解書が必要であると思っている人もいるようです。
今から約500年前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは聖書をドイツ語に訳しました。既に活版印刷術が発明されていたこともあり、翻訳聖書は急速に人々の手に渡るようになりました。当然のことながら、翻訳聖書は専門家の書物となることを想定されてはいませんでした。皆が読んで分かるようにとドイツ語に訳されたのですから。
もちろん、礼拝を離れ、教会を離れて、聖書だけ読んでいればよいというのは、明らかに宗教改革者が意図していたことではありません。宗教改革は礼拝の改革でもあり、礼拝説教の回復でもありましたから。つまり、礼拝において、ラテン語ではなく、皆が分かる言葉で聖書が解き明かされ、福音が語られるということは、人々が自国語の聖書を手にするようになることの大前提だったのです。しかし、それは逆に言えば、礼拝において説教が正しく語られ、聴かれているならば、それぞれが自分で聖書を読むことについて、なんら心配する必要はないということでもあるのです。聖霊の導きを信じて聖書を開きましょう。 (清弘剛生)
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 ヨハネ16:13
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