私たちは週ごとの礼拝において、確かにこの祈りを口にします。しかし、この
祈りの言葉はどれほど私たちにとって現実味を帯びたものとなっているでしょ
うか。不況が口にされる時でさえ、この国はアジア諸国の中では豊かな国に分類
されます。生きることの困難はあるにせよ、多くの人々にはまだ「自分は神に頼
るほど弱くはない」と言っていられる余裕があります。奇跡的に病気が治りでも
したら「神のおかげです」と感動をもって口にするかもしれませんが、普段健康
でいられることは神の恵みの御業だとは思っていません。特別な苦境において奇
跡的に必要が満たされたならば「神のおかげです」と涙をこぼすかもしれません
が、今日普通に生活ができることが神の恵みの御業だとは思っていません。
しかし、そのような社会に生きる私たちであるからこそ、改めてイエス様が教
えてくださったこの祈りの言葉が持つ意味は大きいと言えるでしょう。「糧」は
生きるために必要なすべてを代表しています。イエス様はその「糧」を神に求め
よと教えられたのです。ならばこの祈りの言葉そのものが、私たちに問いかけて
いると言えるでしょう。自分の力で生きてきたような顔をしているが、あなたは
生きるに必要なすべてを神から与えられ、生かされてきたのではなかったか、と。
糧を神に求める祈り――それは私たちが必要なすべてを神からいただいて、恵み
によって生かされている存在であることを、日々へりくだって認め、感謝をもっ
て生きていくことに他なりません。祈りとは、自分の手に負えなくなった時にの
み、緊急手段として神の手助けを求めるようなことではないのです。(清弘剛生)
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