「その独り子、我らの主」(使徒信条5)
使徒信条の原文では、「イエス・キリスト」に「独り子、我らの主」という言葉が続きます。「独り子」という表現は、その前にある「天地の造り主、全能の父なる神」との関係を表しています。すなわち、この御方は父なる神と唯一無二の関係にあり、まさに本質的に神と等しい御方であることを示しているのです。そして続く「我らの主」は、この御方と私たちの関係を表しています。心も体も含めた私たちの全存在がイエス・キリストのものであるということです。
信仰はただ心だけに関わるのではありません。それは口にも関わります。口で信仰を公に言い表すならば、信仰は私たちの生活全体に関わることになります。ですから時としてそれは困難を伴います。キリストを主として認めてはいないこの世界の中で、キリストを主として言い表して生きるのですから。しかし、心だけでなく全存在を主のものとして生きられるということは実に幸いなことです。私たちがキリストのものであるならば、もはや何ものも主の御手から私たちを奪うことはできないからです。この世のいかなる権力も、身にふりかかるいかなる災いも、最終的に私たちに襲いかかる死でさえも、私たちをキリストの御手から奪うことはできないからです。私たちの全存在は永遠にキリストの愛の内にあります。そこにこそ、私たちの救いがあるのです。ですから、ただ心に信じて救われるのではなく、口で公に言い表して救われるのです。救いはただ心だけの救いではないからです。 (清弘剛生)
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネ1:18
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 ローマ10:9
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