使徒信条において、私たちは「罪の赦しを信ず」という言葉を口にします。もちろん「神が罪を赦してくださることを信ずる」という意味です。ここで語られているのは神の御前における罪の事実についてです。他の人の目に明らかであるか隠れているかは問題ではありません。また自分がどう感じるかという「罪責感」の問題でもありません。罪の事実は人の目に触れなくても存在します。人の記憶から消えても、自分が忘れて罪責感が消えても、事実は残ります。私たちが死んでも罪は残ります。その意味で聖書が罪を「借金」に喩えているのは正しいと言えます。神が赦してくださるのでなければ残るのです。それゆえ「罪の赦しを信ず」という言葉を口にできるかどうかは私たちの救いにおいて決定的な意味を持っていると言えます。
「罪の赦しを信ず」と語り得る根拠は既に同じ使徒信条の中で言い表してきたイエス・キリストの出来事です。その中心は十字架です。キリストは十字架にかかり、私たちの罪を償う供え物となってくださいました(ローマ3:25)。神はただこのキリストのゆえに、私たちの罪を赦してくださるのです。キリストの十字架が語られる度に、そして聖餐においてキリストの体と血が分けられる度に、私たちは罪の赦しが決して安価な恵みではないことを示されます。逆に言えば、十字架の言葉からも聖餐からも遠ざかり、十字架の上で苦しまれた御方に目を向けることもなくなるならば、「罪の赦し」ではなく「罪の許し(許可)」として受け止めてしまうようになるのです。私たちは「罪の赦しを信ず」という言葉を、キリストの御苦しみから決して切り離してはならないのです。(清弘剛生)
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 コロサイ1:14
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