「苦しみを受け」(使徒信条8)
使徒信条では、「おとめマリアより生まれ」というキリストの誕生についての言葉から一気に「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という最後の受難についての言葉に移ります。この御方は苦しみを受けるために生まれたことが、このようにして言い表されているのです。
キリストの受難ということで思い起こされるのは下記のペトロの手紙の言葉です。この「耐え忍ぶ」という言葉は、単に「我慢する」という意味ではありません。むしろ積極的に留まることを意味します。善を行って受ける苦しみは不当な苦しみです。その不当な苦しみにあえて積極的に留まるとは、不当な苦しみを与える者を愛し受け入れることに他なりません。すなわち、悪に対して悪をもって返すのではなく、善をもって報いることを意味するのです。それは一人の御方に目を注ぐことによって可能となります。足跡を残しつつ私たちの前を進みゆかれるキリストです。
キリストが苦しみを受けられたのは、私たちに不当な苦しみを負わせた誰かのためにではなく、「あなたがたのために」であるとペトロは語ります。イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためでした。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは他ならぬ私たちだった、ということです。それでもなお、主は限りない愛をもって私たちを愛してくださいました。そのことを思い起こす時、私たちの前に続く足跡の意味もまた見えてきます。その足跡は、キリストの後に従うようにと、今も私たちを招いているのです。 (清弘剛生)
しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたの召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。ペトロ2:21。
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