「陰府に降り」(使徒信条12)
使徒信条を唱える時、私たちはキリストが陰府(よみ)にまで降られたことを言い表します。私たちは死が何であるかを本当の意味では知りません。それゆえに、「陰府に降り」が何を意味するのか、私たちの知り得るところではありません。私たちはただ、ゲッセマネにおいてイエス様が天の父に「この杯をわたしから取りのけてください」とさえ祈られたその姿から、陰府に赴くその苦悩の深さを知りうるのみです。そして、そこに私たちは救いの光を見るのです。このことについてハイデルベルク信仰問答は次のように教えています。「問44 なぜ『陰府にくだり』と続くのですか。答 それは、わたしが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた、言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、わたしを解放してくださったのだ、と。」
キリストはその御苦しみを耐え忍びつつ陰府にまで降り、死の深淵の底にまで神の恵みの光をもたらしてくださいました。わたしは十二年前に召された叔母の姿を思い起こします。病床を訪ね叔母の耳元で聖書を読み祈ったとき、苦しい息づかいの中で彼女はこう口にしました――「感謝します」と。彼女は確かに神の恵みの中にあることを知っていたのです。わたしは改めて思います。私たちの人生のいかなる場面もキリストが赴いた陰府より暗くなることはない。ならば、私たちが経験するいかなる闇の中にも陰府にまで届いた神の光が及ばないはずはないのだ、と。陰府にまで届いた神の恵みの光は、苦しみの中にある叔母のところにも、確かに届いていたのです。 (清弘剛生)
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。 詩編139:8
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